文人画とは、中国ではもともと画を職業としない人たち、すなわち非専門家である文人(おおむね儒家としての人文的教養を身につけた王侯貴族、官僚、地主ら支配的・指導的立場にある者で、幅広い知識を有する読書人であることを前提とし、その教養をベースに詩文の才を発揮する人たち)が描いたものを指す。この文人については、中唐(8世紀後半~)以降になると、多芸多趣味、アマチュアリズム、反俗性、隠逸性などが属性として数えられるようになり、現在の一般的なイメージができあがった。
有産階級出身で経済的に自立していた彼らは、プロの芸術家になるためではなく、あくまで自らの教養、趣味として琴詩書画をたのしんだ。つまり文人画とは、本来、画家を身分で分類した概念で、非専門家が自娯(みずからのたのしみ)のために制作した絵画作品であるということができる。ところが、南宋(13世紀)ごろから詩書画などを専門的に行う人たちが活躍するようになり、文人の専門化、職業化が目立ち始める。そして、14世紀後期以降、明代や清代には売文・売画によって身を立てる文人が増大した。
また、文人画は筆者の個性、人間性を反映するものなので、各人各様の表現様式が当然であった。しかし、元末(14世紀)になると、様式に一定の決まりがなかった文人画がほぼ一定の様式を示すようになる。南宗画(なんしゅうが)と呼ばれる様式がそれで、画風の特色は、天真、感興を重んじ、細めの柔らかみのある筆線を何度も積み重ねて山々の形を表現し、軟らかい皴法を用いて山水画を描くというものである。この南宗画の優位を明末の文人董其昌(とうきしょう)(1555~1636)が説くなど、明末には他流派を圧倒し、南宗画が文人画と同義に解されるようになった。文人の専門化、職業化、さらに様式化も進んだことで、文人や文人画という概念は変質する。
とはいえ、文人画は中国絵画史においてその理想主義的部分を代表するものであった。理想主義とは、視覚的現実だけでは表現不可能な描写対象の本質や人間の精神作用などを表現しようとする指向で、写意(こころを写す)を旨とし、胸中の山水を描くことである。
日本では、江戸時代以降、中国的な教養を身につけた人物を文人と呼び習わしてきた経緯がある。武士・農民・商人といった身分や出自に関係なく、職業とするか否か、専門家であるか否かを問わず、都市にも地方にも文人が存在し、彼らは独自のネットワークを構築して全国的な規模で交流した。彼の地(中国)で行われる琴詩書画の世界に思いを馳せ、文人としての生き方を実践しようと試みたのである。 もっとも、日本には七絃琴(音楽)にまで関心を示した文人は必ずしも多くなかったが、書画や詩作の分野には同好の士が集い熱心に取り組んだ。書画のお手本となったのが江戸時代に長崎を通じ請来された各種の中国画や画譜類である。あわせて、詩文・書画に精通し余技に画筆を執るなど文人趣味を好んだ黄檗僧(渡来僧・和僧とも)の寺院が諸国に広がる。そこに、社会全体での経済力の発展が加わって文雅を愛好する日本の文人層は拡大し、彼らの営みは江戸時代の成熟し洗練した文化を支える大きな力のひとつとなっていく。 ただし、興味深いことに日本の文人層は南宗画のみを受容したのではなかった。中国では文人層に貶められた北宗画も摂取し、日本の伝統的な狩野派や琳派、円山四条派、果ては浮世絵や西洋画法なども受け容れたことで、南宗画の概念だけでは到底包括しきれぬ日本独自のものが形成されている。こうした特異な姿を呈する日本の文人画を南宗画と区別して南画と呼ぶことがあり、山水画以外に花鳥画なども含まれる。
- 田能村竹田(1777~1835)
【重要文化財】
《桃花流水図》
1832年
大分市美術館 114.0×31.0㎝ - 竹田は江戸時代の文人を代表する一人。中国文人の世界に迫ろうと詩書画の制作に情熱を注いだ。
玉堂は、50歳で脱藩する以前、自分は画の描き方を知らず気ままに描くのだから画人というのは恥ずかしいという趣旨のことを書き記している。専門画人、職業画人とみられることを拒否し、巧みに描こうと意識せず、心の赴くまま筆を揮ったにすぎないというのである。そういう彼の意識は終生変わらなかった。生涯を通じて山水以外はテーマとせず、自由に筆を走らせたのである。
画風は年齢とともに変貌したが、いつも自らのたのしみのために描いた。描くという行為そのものが喜びだったのであろう。時には心を許した知友のために制作し、時には席画をすることもあった。しかし、如何なる場合でも、人におもねることなく、形にとらわれることなく、自由に表現している。心をそのまま写す写意こそ文人画の本意であり、彼は自らの胸中山水を画布の上に描き上げたのである。
玉堂は、文人として生きる気概を秘めて琴詩書画に向き合った。実際、彼の生き方や芸術活動には、先に記した多芸多趣味、アマチュアリズム、反俗性、隠逸性などといった文人ならではの属性が看取できる。何よりも、画において独創的なスタイルを貫いたところは見事というほかない。彼はいつも文人としての矜持を大切にしていたのである。
玉堂は、儒学、国学、医学、薬学といった幅広い知識と多方面に及ぶ教養を有した人物であり、優れた音楽家、詩人、書家、水墨画家でもあった。彼には多くの友が全国各地にいて親しく交流した。岡山在住時代は、岡山きっての富商で絵画・書蹟のコレクター河本一阿(1728~96)・立軒(1749~1809)父子や、儒者の西山拙斎(1735~1798)、菅茶山(1748~1827)、皆川淇園(1734~1807)、そして日本の文人世界の元締め的存在の木村蒹葭堂(1736~1802)らがいろいろな場面で登場し、脱藩後はさらに交際範囲が広がる。
画家の岡田米山人(1744~1820)や田能村竹田(1777~1835)、幕臣で文筆家の大田南畝(1749~1823)、儒者の頼春水(1746~1816)とその息山陽(1780~1832)、金沢藩士の寺島応養(1777~1837)、藤枝の大塚荷渓(1778~1844)や防府の上田堂山(1758~1838)ら地方文人、公家の富小路貞直卿(1762~1837)ら、さまざまな階層の多くの人士の名前は枚挙に暇がないほどである。煎茶やお酒を交わしながら彼らと語らい、琴詩書画を楽しむことは玉堂にとって至福のひとときであったことだろう。
“マネジメントの父”と称される経営学者ピーター・F・ドラッカー(1909~2005)は、日本美術に強い興味を示し数多くの作品を収蔵した。その3分の1を文人画が占め、玉堂画も複数含まれる。ドラッカーにとって文人たちの出現は驚異的なことであった。学術と芸術、そして豊かな人脈を拠りどころに封建制度を離脱した文人たちの生き方に近代の萌芽を見たのであろう。激変する社会にあって自己を見失わず事象の本質を見抜くにはリベラル・アーツが有効としたドラッカー。彼の目には、文人たちがその先駆者、実践者として映ったのかも知れない。
それら[文人画]は私たちを満足させるのではなく、私たちが満足させることを要求していたのであった。
第一級の文人画とは、観る人にその画家の心(ペルソナ)を持って見るよう要求しているように思われた。
今になって、私にはこれこそが文人画の威力であることがわかる。
文人画と共にいれば、それだけ自分自身について学ぶからである。
大阪市立美術館、日本経済新聞社『ドラッカーコレクション 水墨画の名作展』
(大阪市立美術館・日本経済新聞社、1986)より
[単行本]
- 飯島勇『文人画 日本の美術4』(至文堂、1966)
- 吉澤忠、山川武『南画と写生画 原色日本の美術●25』(小学館、1971)
- 吉澤忠『日本の南画 水墨美術大系別巻1』(講談社、1976)
- 山内長三『日本南画史』(瑠璃書房、1981)
- 中田勇次郎『文人画論集』(中央公論社、1982)
- 武田光一『日本の南画―世界美術双書008』(東信堂、2000)
- 島谷弘幸『日本の美術 第504号 文人の書』(凸版印刷、2008)
[展覧会図録]
- 福島県立博物館編『玉堂と春琴・秋琴―浦上玉堂父子の芸術―』(福島県立博物館、1994)
- 岡山県立美術館、千葉市美術館編『浦上玉堂』(岡山県立美術館・千葉市美術館、2006)
- 河合正朝監修、松尾知子編集『ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画 『マネジメントの父』が愛した日本の美』2015、美術出版社
- 大阪市立美術館、日本経済新聞社『ドラッカーコレクション 水墨画の名作展』(大阪市立美術館・日本経済新聞社、1986)