浦上玉堂の魅力とは。彼の生き方、芸術に惹かれた人の言葉を紹介する。

1.田能村竹田(1777〜1835)

人物紹介

玉堂と同時代の文人画家で文筆家。玉堂の長男春琴と親しく交流し、玉堂とは大阪(大坂)の持明院で40日間にわたり同居した。当時最高とされる画論書「山中人饒舌」を著し、その中で玉堂画を高く評価している。同時代人として玉堂を最もよく理解した一人。

三可三称

 

余評紀画有三可。
樹身小而四面多枝、一可也。
点景人物極小、望之猶知文人逸士、二可也。
烘染皴擦、深透紙背、三可也。
又有三称。人称屋、屋称樹、樹称山。
或曰、苟作画悉当然也。何唯紀而巳哉。
答曰、然而今史不為如何也。

【口訳】わたしは玉堂の画を評して、三つの長所があるとする。樹木の形が小さく四面に枝が多いこと、これが一の可である。点景の人物が極めて小さく、これを遠くからみてさえ文人逸士であることがわかる、これが二の可である。乾かしては塗り、こすりつける筆遣いは紙の裏まで透き通るほどである、これが三の可である。また三つのつりあいがとれた点があるとする。作中の人物は家屋とつりあい、家屋は樹木とつりあい、樹木は山とつりあっているという三点である。これに対し、「かりにも画を描く者ならば、これらはすべて全く当然のことだ。何も玉堂だけに限らない」と言ったものがある。わたしはそれに答えて、「それなのに今の画家がそれをしないのはどういうわけか」と言った。

竹谷長二郎『田能村竹田画論『山中人饒舌』訳解』(笠間書院、2013)より

田能村竹田『山中人饒舌(上)』イメージ
田能村竹田『山中人饒舌(上)』
(田能村順之助、1879、国立国会図書館蔵)より


2.ブルーノ・タウト(1880〜1938)

人物紹介

ドイツ人建築家。1920年代に12,000戸もの集合住宅をベルリンに完成させる。1933年、ナチス政権から逃れ来日し、3年半を過ごす。その間、建築、書画、工芸、芸能等日本文化を見渡し、桂離宮、伊勢神宮を賞賛したことで知られる。『日本美の再発見』など著作多数。

ゴッホに比する

浦上玉堂!私の感じに従えば、この人こそ近代日本の生んだ最大の天才である。彼は『自分のために』描いた、そうせざるを得なかったからである。彼は日本美術の空に光芒を曳く彗星のごとく、独自の軌道を歩んだ、-この点で彼は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに比することができるであろう。玉堂は表現手段を自己みずからのうちに求めた、固より彼を生んだ国土と時代との児ではあったが、しかしその国土も時代もついに彼を理解し得なかったのである。彼の様式にも一種の略画的な要素がある。しかしそれは雪舟とはまったく異なったものである。玉堂の芸術は、あたかもヨーロッパの印象派の先駆をなすの観がある、すなわち気分をかもし出す暗示を与えはするが、しかし同時に精妙な詩情をも伴っている。また自然をそのまま再現するのではなくて、自然を解釈し、自然の形態をもっていわば作曲し、紙あるいは絹の画面に人間の感情をさながらに揮灑したのである。それだから玉堂にあっては、略画的なものは抽象ではなくて、むしろ画意の豊富を意味する。精密な線描は、例えば樹葉を写す場合に、吹く風をも描かねばならぬとすれば、かえって不精確になるのである。芸術においては、一切は芸術家の『胸憶の像』に帰著するのであるから、このような意味において玉堂は、画家のうちで最も精厳な芸術家であつた。このことは、彼が思慮を凝らして用いている色彩の温さについても言い得る。つまり彼にあって色彩も心的なものに翻訳せられているからこそ、かえつてますます真なのである。

ブルーノ・タウト(篠田英雄訳)『タウト全集第三巻 美術と工藝』
(育生社弘道閣、1943)より
※旧字を新字に、旧仮名づかいを新仮名づかいに改めた


『建築家ブルーノ・タウトのすべて』展図録
(武蔵野美術大学、1984)より


3.川端康成(1899〜1972)

人物紹介

日本を代表する小説家。日本人初のノーベル文学賞受賞でも知られる。透徹した審美眼で優れた美術品を蒐集し、独自の美的世界を築き上げた。昭和25年、日本ペンクラブ会長として広島、長崎を訪れた帰りに京都で《凍雲篩雪図》とめぐり合い入手。後に同図は国宝に指定された。

近代的なさびしさ 古代の静かさ

日本の文人画の蕪村、玉堂、竹田、崋山なども所詮は末世の人にあったように思えてなりません。あるいは浦上玉堂は少しちがっているかもしれません。夕日のさす木に鴉の群が帰る一つの絵など、木は見ようでは燃え立っていると思えますし、鴉は見ようでは気が狂っていると思えますし、ほんとうは南画風に高逸蒼古というような言葉をならべなければならないのでありましょうが、私にはすこぶる近代的なさびしさの底に古代の静かさのかようのが感じられて身にしみるのであります。
亡霊のように生きている六十四歳のユトリロという言葉をある美術書のなかに見、合わせてその老いたユトリロの写真を五六枚見て、私は寒けがいたしました時にも、とっさに玉堂の東雲篩雪という絵を心に浮べました。モヂリアニ、パスキン、スウチンに先立たれたユトリロのような残生は私ども日本人にはないと思いたかったからでありましょうか。玉堂の雪の山にも凍りつくようなさびしさがありそうですけれども、それが日本でいろいろ救われているところもありそうです。

川端康成『反橋』(初出1948年『別冊風雪』創刊号掲載『手紙』の改題)
ここでは、川端康成『反橋・しぐれ・たまゆら』(講談社、1992)所収の『反橋』より引用

川端康成
提供:公益財団法人川端康成記念会

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