1.玉堂の人生・略年譜

浦上春琴筆《浦上玉堂像》
浦上玉堂(うらかみ ぎょくどう)延享2(1745)年~文政3年(1820)9月4日

生誕〜

エリート藩士へ成長

延享2年(1745)、浦上玉堂は備前岡山藩池田家の支藩備中鴨方藩に仕える武士浦上兵右衛門宗純の子として岡山城下の藩邸内(現在の岡山市北区天神町)に生まれた(幼名市三郎また磯之進、後に孝弼)。幼い頃より勉学に励んだ玉堂は、父の病没により7歳で家督を相続し、16歳の時に一才年上の鴨方藩主池田政香に初御目見、その後側近“御側詰”となり忠誠を尽くす。政香と玉堂は「水魚の交」と謳われるほど厚い信頼関係で結ばれ、玉堂は敬愛する政香のもと順調に昇進するが、政香は25歳の若さで病死してしまう。この時葬儀諸事取計を仰せ付けられた玉堂は無事大役を果たし、その後31歳で参勤交代の御供頭、37歳で大目附役と藩の重職に就く。

玉堂筆写『論語』『孟子』『中庸』

玉堂筆写『論語』『孟子』『中庸』
岡山県立博物館 27.0×19.0cm
明和7〜9年(1770〜72)
20才代後半の玉堂が鴨方藩江戸藩邸で書写したもの。

三十代

「玉堂」を得る

藩務に励む一方で、玉堂は儒学や医学、薬学といった学術や、詩作や音楽(七絃琴)といった芸術の分野にも強い関心を示していた。中でも力を注いだのが七絃琴で、彼は演奏家であるだけでなく、作曲家、造琴家としても活躍するようになる。“玉堂”という号も七絃琴への厚い想いから生まれたものである。35歳の時に中国明の顧元昭作の七絃琴を江戸で入手した彼は、そこに刻まれていた琴銘「玉堂清韻」にちなみ“玉堂琴士”と名乗るようになる。長男の“春琴”、次男の“秋琴”という号からも、玉堂の琴への愛情の深さを窺い知ることができる。

玉堂製七絃琴

《玉堂製七絃琴》
正宗文庫 長108.0cm
天明6年(1786)に玉堂がつくった七絃琴。玉堂製七絃琴は他にも複数遺されており、これは最初期のものと考えられている。

四十代

琴詩書画に遊ぶ

玉堂が画業に本格的に打ち込み始めたのは、40歳代に入ってからのことと考えられている。当時は自己の様式を確立するまでには至っておらず、自身でも「気ままに描くのだから画人(画家)というのは恥ずかしい」(『自識玉堂壁』)と記している。やがて独自の画境に達する玉堂であるが、本人は職業画人(プロの画家)と見做されることを拒み、その姿勢を生涯貫いた。この頃の玉堂は、琴を奏で、詩をつくり、書画をかき、文雅を好む友人たちと盛んに交流している。そうした暮らしぶりが職務にふさわしくないと判断されたのか、玉堂は43歳の時に大目附役を解かれ左遷される。ちなみに、42歳時に母茂、48歳時には妻安を亡くしている。

南村訪村図

浦上玉堂筆《南村訪村図》
岡山県立博物館  50.0×47.2cm
40歳代前半の作品。岡山の豪商河本一阿のもとめに応じて描かれた。

五十歳

決意の脱藩

寛政6年(1794)、前年に隠居していた玉堂は、長男春琴(16歳)と次男秋琴(10歳)を連れて岡山を発ち、逗留先の但馬国城崎から藩へ脱藩届を送る。もはや老境ともいうべき50歳にして、彼はそれまでに築き上げた武士としての地位、名誉、キャリア、故郷を捨てたのである。脱藩理由として、①主君の死で厭世の念を抱いた②母、妻が亡くなり、長女之も嫁ぐなど係累に煩わされることがなくなった③幕府が朱子学以外の学派を禁じる中、陽明学を学ぶ玉堂は思想の自由を求めた等の見解がある。また、脱藩の思想的背景として、玉堂が老荘思想から影響を受けていたことが指摘されている。なお、岡山は武士の出奔に比較的寛容な土地で、玉堂の脱藩によって一族に処分が下されることはなかった。

伝玉堂所持一覧

伝玉堂所持短刀(上段3点)、伝玉堂所持筆・医薬品等(下段4点)
岡山県立美術館(浦上家伝来品) 刃長21.2cm
玉堂は岡山時代から医薬に関する知識を保有していた。その知識と業は脱藩後の諸国歴遊中に役立ったことであろう。

五十代〜六十代

遊歴を経て、京へ

脱藩後の玉堂は諸国を遊歴する。城崎から大阪(大坂)を経て江戸へ、そこで春琴と別れ、秋琴を連れて会津へ向かう(秋琴はこの時から会津藩へ仕官)。会津を発ってからは、諏訪、京都、大阪をまわっている。50歳代後半は京都を中心に活動していることが判明しているが、詳しい消息は不明。60歳になって京都、大阪、名古屋に姿を現し、60歳代前半で周防、再び大阪、水戸、飛騨、金沢を訪ねている。各地で交友を楽しんでおり、長崎では幕臣で文筆家大田南畝、広島では儒学者頼春水、漢詩人菅茶山に会い、大阪の持明院では40日にわたり文人画家の田能村竹田と同宿、金沢では藩士で文人の寺島応養と親交した。その後、67歳の時に京都に暮らす長男の春琴一家のもとへ身を寄せる。

浦上玉堂筆《山高水長図》
岡山県立美術館 177.7×95.0cm
60歳代後期の作と考えられる。友人の一人、雲華上人のもとめで描かれた。

山高水長図

晩年

家族と友に囲まれ、風流韻事に耽る

玉堂と同居し始めた頃の春琴は関西きっての人気画人となっていた。依頼された山水画や花鳥画を次々とこなして名声を高める息子と、気の向くままに独創的な山水画を描く父親。玉堂は春琴の絵を“針箱絵”とけなしたと言われているが、実態は互いの才能を認め合う仲の良い父と子だったようだ。春琴の庇護のもと、友と酒をこよなく愛し風流韻事に耽る晩年を過ごした玉堂は、文政3年(1820)、76歳で人生を閉じる。彼の葬儀について明らかではないが、地方からも香典が届けられ、京都法輪寺境内に建てられた玉堂琴詩之碑には春琴が泣いて血書したと刻まれている。玉堂は本能寺に葬られ、今も春琴とともに眠っている。

山紅於染図

【重要文化財】
浦上玉堂筆《山紅於染図》
愛知県美術館(木村定三コレクション) 36.5×65.5cm
左寄り上部に「山紅於染 玉堂酔作」とある。「酔作」とはほろ酔い加減で筆をふるうこと。

玉堂略年譜

facebook

ページ上部へ移動